スマホ依存
スマホ依存
自分がこの世に生まれて、60年になる。
幼き頃、カラーテレビが家に来た。その頃に、自家用車を父が買い、幼稚園くらいから、家族旅行、ドライブが始まった。日本の景気はどんどん良くなり、ピカソ、シャガール、ゴッホ、印象派の大きな展覧が九州にもどんどん来ていた。その度、家族みんなで仕事と学校をさぼって、日帰り、または1泊鑑賞旅行。小学生の自分は、どれだけ解っていたのかは怪しいが、とにかく大規模で大きな迫力のある作品が並んでいた。
本物を見る。
今は、なかなか難しい。映像でも、写真でもない、本物の感動には勝てないけど。
話を戻す。
テレビ世代の昭和の自分は、幼き頃から、テレビのリモコン(チャンネル)は、基本親主導、結婚したら、特にテレビを見る時間が決まってないので相手主導。あんまり、がっつりテレビを見たことはない。ついていたら、それを見るけれど、別に用事があればそちらに行く。
大人になって、子育てをして、仕事の隙間で家にいる感覚の中、テレビの前には、いない時間の方が多かった。小学生の頃から、テレビの話にはあんまりついていけなかったので、朝ドラも連ドラも、めんどくさくて、よほどはまるきっかけがないと、見る気がしない。
数年前から、一人の時間が基本になった、安心して好きなものを見られる環境が初めてできた。
選んだのはスマホのSNS。
テレビの雰囲気があまり好きではないし、画面に向かって座っているのもなんだか時間がもったいない。
YouTubeからは、自分が知りたい情報がピンポイントで入ってくる。
世界の情報が、いろんな方向から知れる。制限はあるものの、テレビよりよっぽど偏りもなく、脅迫的に繰り返し一日中同じものを見なくていい。
気が付くと、スマホ依存になっている。
スマホがない生活を送れるのか?いや、かなり厳しい。と思ったところで「スマホ依存」なのではないか?
依存なき生活とは
自分は「○○依存」と思う具体的な線引きは、今回は自分でそう思えばそうだ。ということで考える。
自分に厳しい人、自分に限りなく甘~な人があると思うけれど、自分の感覚で決める。
ということで、私は、自分が今日これをしたい!と思っていることを、いつの間にか時間が過ぎてできなかった。という残念な事象が多々ある。いつの間にかの原因がスマホのショート動画をぼーっと見続けていることなので、「スマホ依存」とした。
「依存」というと、なんだか、自分がコントロールされて乗っ取られている気分で、良くない。
「依存」からは脱したい。どうしたら「脱・依存」になるのか。
自分の意思は、分刻みに変わり、日替わりで動いている。
1番は、体調だ。内臓、特に腸の状態が体調を決めているかもしれない。おなかの調子がイマイチだと、胃の調子も、肺の調子も、気管支の調子も整わない。「したいことがあるけど、動きたくない。そうだ、YouTube見よう。」そうして、その日の自分に与えられた時間は過ぎていく。」
2番は、ふと気になり、「調べてみよう、確認してみよう」で、スマホを使うと、メール、ラインの確認から、動画に入って、1時間を使う。
3番は、用事が入って、今していたことが出来なくなる。「時間が中途半端だ、スマホを見よう。」で、隙間時間を埋めてしまう。
この時間は、自分にとって不必要なのだろうか。
スマホの動画で「気づき」が得られ、精神的に安定する内容が学べ、仲間との交流が生まれる。
自分にとって、必要な時間がこの中に混ざっている。
スマホが悪いわけではない。見ること使うことは必要だ。
これはもう、上手に仲良くする以外に道はない。
これは、スマホに限ったことじゃない。なんでもそうだ。
依存から使うへ
「依存」だ、と思う時、自分は自分の大切な二度とない一瞬一瞬をスマホをぼーっと聞いたり眺めたりすることにゆだねている。「今の自分の命」を乗っ取ってもらっている。この、「命の無駄使い」が「依存」。
「大切な情報を得て、自分の時間が充実した」と思う時、スマホは「今の自分の命」を輝かせるもとになっている。つまり、「命を輝かせる道具の一つに使用した」ことが「使う」
自分の直感で、動画を選ぶと、「今の自分」の状態を助けてくれるものが、ドンピシャに流れてきて、「これだ」と思うことが割と多い。
なんとなく手持無沙汰で、耳さみしいから流し聞いていると、残念な結果になることが多い。
「依存」にならないように、「使う」ことは、時には難しく感じることかもしれないけれど、使わない時間の心地よさにも気づいていけば、上手に付き合えると思う。
テレビの音がないと、寂しいからテレビをつける。ずっとテレビの前にいて、食事、昼寝をしていたら、脳が溶けた感じがする。これは、小学生の頃の長期休みや、出産前の動きたくない時期に感じたことがある思い出だ。
今は、それが、パソコンやスマホの画面に移っただけだろう。
もう、今は、この一瞬が二度と来ない自分の命の時間だというのを、知っている。なんとなく体感している。
何かに「依存」して、魂を預けている時間なんかないと思う。
そう思う時には、「依存」から抜け出している。でもまた、ハッと気づいたときに何かに「依存」していることに気づいたら?その時は、「依存」していた自分を責めずに、とっとと先に進もう。
でも、過去を責めて悔やむことに魅力を感じたら、そこに留まってずっとそれに執着したまま、「あー自分はなんてダメなんだ!また依存している・・・」と落ち込んでぐるぐるしている情けない自分を楽しめばいい。
時間は命。それを何に使うかは、今世の地球に、私という形で生まれてきた命の期限の中で、一番自分が使いたいと思う基準で選んでいきたい。基準は「愛と喜びと感謝」に繋がるものだと思っている。どんなに、その真逆な事が起きても、その出来事そのものと、そこから考えられる残念な自分の状態にいつまでも執着せずに、手放すと「愛と喜びと感謝」に繋がる道筋が見えてくるから不思議だ。
今日も、今ここに目覚めて、生きている自分に感謝して、「依存」に気づいたら、即手放し!でやりたいことをやっていこう。
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